文政12年 – 大正12年
前史
約200年前、江戸時代の後期(文政12〈1829〉年)に当栄新田(加福新田)が誕生しました。
当時新田に珍獣が現れたことから「化物新田」の名称に。地主たちが夢を託したその地は、明治時代になり13人の地主(株主)が再開発に挑戦。
大正時代後期、地主たちは貯木場開設を計画、「土地を生かす」夢の実現に奔走しました。
大正12年〜昭和20年
会社創立〜終戦
大正12年、13人の地主により加福土地株式会社が設立されました。
14年には貯木場の完成と同時に営業を開始。この頃は木材産業が盛況で、木材の入荷量急増により貯木場利用も順調でした。経営地は木材関連企業の集積地となり、製材やラワン合板などの工場用地として活用されました。
昭和12年には敷地内に念願の引き込み線が開通。この年日中戦争の勃発により戦時体制に突入するも、19年には、名古屋港木材倉庫株式会社と社名を変更しました。20年の二度にわたる空襲により貯木場の保管木材は焼失。
昭和20年8月15日、終戦を迎えました。
昭和20年〜41年
戦後のスタート
貯木場は昭和24年頃までほぼ空の状態で、埋め立てや売却計画が取り沙汰されました。
しかし、統制法の廃止や朝鮮戦争の特需などにより木材入荷量が増加し、木材産業は急速に発展。
当社も33年には本社社屋を新築しました。
翌34年9月には伊勢湾台風による流木災害など大惨事となり、木材業界と連携を図り災害復旧に邁進しました。右肩上がりの30年代は経済の活発化に伴い木材輸入量が急増し、それとともに港湾運送事業や港湾労働者への近代化問題の浮上など、当社にも大きな影響を与えることとなりました。
昭和41年〜60年
新生・名古屋港木材倉庫
昭和41年春、当社を取り巻く経営のひずみにより、大半の従業員が退社する事態となりました。これを機に港湾運送事業の近代化を図り、経営基盤を確立し、半年後には新しい名古屋港木材倉庫としてスタートしました。
43年には西部木材港が開港し、丸太の入荷量も順調でした。しかし、第一・二次オイルショック以降、原木仕出国の事情により丸太から木材製品へと移行し、貯木場の入庫量が減少傾向となりました。次第に貯木場の閉鎖が現実化しつつあるなか、当社は埋め立て後の新規事業を模索し、新たな道を見いだしました。
昭和60年〜平成24年
新規事業展開
貯木場跡地には昭和60年、チップ工場とゴルフ練習場(大江グランドゴルフ)をオープン。続いて製砂工場やモータープールなどにも利用されました。折しも時期はバブル経済の始まり。「廃棄物処理法」制定以降、廃棄物処理に関する規制が強化され、廃木材をリサイクルするチップ工場の必要性が求められ、事業を開始しました。製品は燃料チップから製紙用、ボード用など用途も広がり、さらに、剪定枝葉などの生木破砕工場を稼働し、当社独自のリサイクルシステムも構築しました。
また、大江グランドゴルフのオープンは、ゴルフブームに乗り好調なスタート。
しかし、日本経済の悪化とともにゴルフ練習場への入場者の減少が続き低迷期に。施設や企画などを充実させ、さまざまな打開策で集客の回復を図りました。
一方、輸入木材の変化により西部木材港では、荷役の中心は水面貯木場から陸上貯木場の利用へと移行してきました。当社は、輸入木材の製品化に合わせ西部倉庫や飛島倉庫を整備して、荷主のニーズに対応する管理・運営に努めてきました。
平成25年〜令和5年
さらなる躍進
100周年を迎える令和5年までの10年間には、新型コロナウイルス感染症の感染拡大や「ウッドショック」など想定外の出来事がありました。
平成27年には「エコワールド犬山」の操業開始と太陽光発電設備を開設、さらに大手物流企業の拠点向け配送センターが利用する土地の長期賃貸契約など、新たなビジネスを展開しました。
令和4年には、待望のバイオマス発電「NPLWバイオマスパワープラント」の竣工、稼働開始です。名古屋港木材倉庫は再生可能な資源・木材にこだわり環境を守り、未来へつなぐ企業として、今後150年、200年……とさらなる躍進を続けていきます。